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2007.08.18

第70話 コウノトリの親離れ

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7月31日、コウノトリのひなが巣立った姿が、テレビで何度も放映されました。場所は、兵庫県の豊岡市にある県立コウノトリの郷公園(附属飼育施設コウノトリ保護増殖センター)。

Orientalstork02_3田んぼの中にニョッキリ立った人工巣塔上から旅立ちでした。
 
施設の係員だけでなく、近隣の人達も大勢集まり、今か今かと固唾を呑んで見守る中での、ひなの飛び立ちはどんなに感激的だったことでしょう。
兵庫県民としては、まずは見ないわけにはいかないと、現地を訪れてみました。

行く時には、コウノトリは稀少で、運が良くないと見られないのではないかという不安がありましたが、実際には結構たくさんいました。
また、鳥の観察が特別趣味でもない人間にとっては、少し見たらすぐに退屈するのではないかと心配しましたが、これも全くの杞憂でした。

実物を観てみると、その優雅さと美しさに圧倒されます。
まず立ち姿が美しい。また、コウノトリは飛ぶ時羽ばたかず滑空するのですが、大空を滑空する様は何とも言えない魅力で惹き付けられます。当日公園に訪れていた多くの人々も、コウノトリが滑空して自分の眼前を通過していく時などには、「ウォー!!」と思わず叫んでいました。

さて、戦後、急速に数を減らしたコウノトリですが、昭和46年には一度絶滅してしまいます。その理由として1)戦中戦後の松の伐採で巣が作れなくなった。2)国の減反政策と 3)農薬の使用でコウノトリの餌である田んぼや水路の魚やドジョウ、かえる等がいなくなったことが挙げられていました。
今では、コウノトリの保護・増殖は環境問題だという認識が一般になってきています。
コウノトリが棲息できる環境はイコール私達人間にも優しい環境だということです。
事実、豊岡地域の農家や住民は、無農薬・有機農法などいろいろな意味での環境運動を熱心に進めています。

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昭和40年からの人工飼育の努力が実って、豊岡のコウノトリは現在合計122羽に増えているそうです。
そうなると、次の大きなテーマは、人工飼育で育ったコウノトリを自然に帰す。「放鳥」です。
しかし、これがなかなか難しいようです。

公園内では、毎日餌付けをしているのですが、放鳥されて自由になった鳥も、自分で自由に飛びまわり餌を探すのではなく、公園近くに棲んで、時間がきたらその餌を食べに来ます。言わば、毎日「里帰り」をしている状態です。
公園の関係者は、近くに棲んでいる自分達が育てたコウノトリが愛おしくてしょうがない様子ですが、同時にいつまでも当てにされ続けることは活動の目標ではありません。
近くで平和に暮らしてほしいような、自立してほしいような、そんな心境ではないでしょうか。
何か、じっとおとなしく餌を待つコウノトリ達をこちらも炎天下でじっと観ていると、親離れの難しさは人の子と同じだなと痛感させられました。

ともあれ、昔のように、川や田んぼでコウノトリを普通に見ることができる環境に戻ってほしいなと願い豊岡を後にしました。

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2007.08.08

第69話 近江八幡と軽井沢が繋がった!! その二

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前回からのつづき

軽井沢に着いたのは午後1時過ぎであったろうか、あいにくの天気で一面霧に覆われ、気温も18℃と肌寒かった。

ところで、軽井沢について、にわか仕立ての知識によると次のようである。

明治時代に入って廃れていた旧宿場町、軽井沢に1886年(明治19年)アレキサンダー・ショーというイギリス人宣教師が訪れたそうだ。彼は日本の夏の暑さに閉口しており、軽井沢の涼しさと風景にいっぺんに魅せられた。
そして、休業状態であった亀屋という旅館に一夏の滞在を申し込んだ。
その亀屋の主人が佐藤万平という男であった。

その後、ショー氏は別荘第一号を建てるほど軽井沢を気に入り、友人の宣教師や財界人、文化人にも積極的に紹介した。
また、佐藤氏は訪れる避暑客を当て込んでか完全洋風建築の『万平ホテル』を建設した。
我々は昼食をとりにここに立ち寄ったが、木立の中に広がる建物は、さすがに重厚で
伝統を感じ、また何ともいえない落ち着きを与えてくれる場所だった。

容易に帰国できない宣教師達は、全国から軽井沢に集まり、避暑と交流を楽しんだ。
そして、欧米人が避暑をするということで、政財界人、文化人、芸術家、そして皇族までもが軽井沢に別荘を持ち、この地を愛するようになった。
今の軽井沢があるのは、アレキサンダー・ショー氏と佐藤万平氏によると言っても過言ではないそうだ。


さて、こうした外国人宣教師の一大集結地となった軽井沢にヴォーリズ氏もよく訪れたのであろう。軽井沢集会堂や軽井沢ユニオン教会も彼の作品である。そして、彼は多くの別荘も作っている。軽井沢の発展にも大変寄与しているのだ。

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旧軽井沢の商店街を歩いていると、古い写真屋さんがあった。そこでは、軽井沢の歴史を物語るたくさんの写真が売られており、当然ながら天皇家の写真もたくさんあった。
今の天皇皇后両陛下がお知り合いになられた、テニスコートのロマンスもちゃんと販売されている。

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興味深くいろいろ見ていくと、驚く写真に出会った。近江八幡で見た美智子皇后も女学生姿で写っている例の写真だ。
ただ近江八幡と違うのは、その写真に写っている人物の中で紹介されているのが、美智子様とヴォーリズ氏ではなく、美智子様と少年の頃の川口浩氏であったという点だ。

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日本に帰化したヴォーリズ氏は、日本人として終戦を迎えた。
そして終戦の年、彼は戦後の日本を方向付ける大きな役割を秘密裏に担った。GHQが彼に仲介を求め、当時の近衛文麿首相とマッカーサー司令官の会談が実現したのだ。この会談が歴史に残る9月27日の昭和天皇とマッカーサー司令官との会談に結び付いたのだ。
軽井沢で見つけた英語の文章には、ヴォーリズ氏が天皇制を救ったとある。
歴史観はいろいろあろうが天皇制だけでなく、戦後の日本を救った偉業とも言えるだろう。

行き当たりばったりの旅ではあったが、偶然にもヴォーリズ氏に触れることによって、
彼と彼の波乱万丈で魅惑的な人生とをキーワードに旅を進めることができたのは楽しかった。
いずれにせよ、人生もまた旅であることを思えば、両者が偶然に重なり合っても不思議なことではない。

私達夫婦は、その後日本海を回り、富山で海の幸を堪能して帰るというルートを採った。

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2007.08.02

第68話 近江八幡と軽井沢が繋がった!! その一

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先日、妻と一緒に3泊4日の旅行に出かけた。
一応ささやかな旅行ではあったが、結婚25周年の銀婚式アニバーサリーのつもりであった。
夫婦での旅行は、昨秋の岡山への1泊プチ旅行を除けば、昨年1月の『チャングムを追っかけてツアー』(韓国ソウルに行って、チャングムのテーマパークで盛り上がったという旅行:自称)
以来である。

何とか日が取れそうだと判断できたのが10日程前だったので、海外はダメ、国内旅行も行き先で歩くのは面倒くさいということで、車で行くことに決めた。
車で行ける範囲を考えると(妻は運転ができない)、まあ軽井沢くらいが限界かということで目的地が決まった。
そして、軽井沢まで一気に走るのは大変だからと近江八幡で一泊することにした。
なぜ近江八幡かと言えば、同じ近畿でありながらいつも通過するだけで立ち寄ったことがなかったからである。


近江商人発祥の地である近江八幡は、昔の町並みが保たれていることでも有名である。
水郷の舟遊びと商家の町並み見学でぶらぶらするか。と保存地区を歩いていたら、レトロな郵便局が目に付いた。今は、骨董やおみやげ物売り場になっているようだ。
何気なく中に入ったら、その建物を設計したというヴォーリズ(ウイリアム・メレル・ヴォーリズ)という人の紹介コーナーが設けられていた。
どうもここは、旧近江八幡郵便局という建物らしい。
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ヴォーリズ氏は、宣教師としての志で来日し、八幡商業の英語の教師を務めていたらしい。しかし、学校で宣教活動をしたため首になり、それをきっかけに実業の世界にも進出し、のちの近江兄弟社を創立した。また、設計家としても大変な活躍し全国に文化的な建築物を数多く残している。
展示されている資料を追っかけていると、そこの責任者と思しき男性が近付いてきて、ヴォーリズ氏の事をいろいろと説明してくれ始めた。
ヴォーリズは神戸や阪神間にも縁が深く、奥さんは神戸の子爵一柳家の娘さんだったとか。
我々の興味が高まってきたところで、その男性は展示している大きく引き伸ばされた古い写真を示しました。

6803『これは、軽井沢のテニスコートで、ほらここに写っているのは、美智子様がまだ若い時。そしてこちらの端の方にいるのがヴォーリズ。』
確かに外国人と日本人が交じった20人足らずの集合写真には、美智子皇后のまだ初々しい女学生の姿を見ることができる。
 なぜ軽井沢のテニスコートでしかもその後の皇太子妃となられる美智子様とヴォーリズ氏は一緒に写っているのだろう。

これは軽井沢に急がなくてはならない。
たまたま適当に決めた軽井沢という目的地が意味を持ち始めたのであった。

                                つづく

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