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2006.11.11

第64話 個性尊重に逆行するいじめ問題

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子を持つ親として『いじめ』は本当に心を痛める問題です。
自分の子供が被害者の側にも加害者の側にも立つ可能性があるから余計複雑です。
テレビなどでのコメントを聞くと、いじめはけしからんという被害者側(この場合の被害者とはいじめに遭って自殺したような子供のこと)一辺倒のものから、いじめなどは人間社会の中では不可避なもので昔からあったというような適者生存・自然淘汰を容認するような議論までまちまちです。
喋っているコメンテーターも簡単には談じることができず、ましてやこれという解決策もそう簡単には出せない問題です。

今、私学に通わせたがる親が増えているのも、いじめ問題と深く関係しています。
進学実績がどうというよりも、理念を持って教育環境を管理してくれると思われる学校に安心して子供を通わせたいと願う親が増えてきました。

日本は永らく、欧米に追いつけ追い越せで、個性を無視した画一的な教育を続けてきました。国や社会が一元的に決めた基準で子供の優劣を判断してきたのです。
しかし、近年になって、『ゆとり教育』とか『個性の時代』とか言われるようになり、それを聞いて当然、画一教育が改善されるのではと期待しました。
しかし、結果として、いじめの構造は以前に増して深く広く陰湿に広がったのが現実です。

いろいろ原因が言われています。
子供が孤立化していること。携帯電話が普及してきたこと。子供がわがままになりまた即物的になってきたこと。これらは間違いなく関係しているでしょう。
しかし、それと同時に、社会全体が極端にヒーロー化された一握りの成功者にスポットを当て過ぎる傾向も影響が大きいのではと私は考えます。そしてそれは、特にメディアの姿勢によく表れています。
誰かにスッポットライトを強く当てると、その反面には深い影ができます。
又、正義と悪、ヒーローとヒール(悪役)の対比は、分かり易く視聴率を稼げるのでしょう。
しかしながら、心理として見上げる対象があれば、見下げる対象が必要になってきます。

自由や個性の尊重という掛け声も、社会を流動化し競争を促すのには役に立ちましたが、
日本の場合ご都合主義で使われているとしか思えません。
哲学的な基盤が無いまま、無理やり押し付けられても戸惑うばかりです。過渡的な現象なのかもしれませんが、現在、社会全体で大人も子供も拠るべき確かな価値を見失い、各々が自分勝手に迷走しているように見えます。
そして、子供達は、互いの個性を尊重し合うどころか、自己中心的に他の子と接し、相手の僅かな差異をあげつらってストレスのはけぐちに攻撃します。

人間社会の本質に関わる問題だけに、解決策は難しいのでしょう。
ただ、日本は先に述べたような教育風土のせいか、生徒(子供)一人ひとりが、常日頃から理解され、話を聞いてもらえるような人(担任の先生でなくても、PTAのボランティアでも先輩でもよい)を制度的につける、ケアのシステム作りが遅れているように感じます。
おそらく昔は、わざわざ学校でそんな制度をことさら考えなくても、地域社会の誰かがその役を担ってきたのでしょう。

子供の人間関係の脈絡やケアのシステムをソフトにしかししっかりと管理する努力(場合によっては技術)が教育現場に求められています。
構内で起こるいじめ問題を担任の教師と校長先生だけで解決するのは無理だと考えますがいかがでしょう。

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